10/18/2016

たかがノーベル賞、でよい(ディラン氏も?)

ノーベル文学賞を授与されるボブ・ディラン氏は受賞に対しこだわりがあるようだ。本人が公言していないので推測するしかないが、大成した自己のライフスタイルに合わないので、忌避的対応をしているのかもしれない。

ノーベル文学賞はその作家の作品、活動の全体に対して与えられる、とされている。この授与対象とされる二つの前者の「作品」の場合、文「学」は学問の一部のような名称だが、ストーリーの芸術と言った方がよい。芸術は鑑賞する個人の主観だから、客観的に評価して授与する各種の賞には無理なのかもしれない。後者の「活動」の場合だったら、たとえば、作品群が文学界の隆盛に資したとか、が客観的に対象になる。ディラン氏はこちらの「文学賞批判派」かもしれないし、氏の作詞、歌手活動は本来の文学にくらべて更に主観的だ。

いずれにせよ、ノーベル賞はきわめて政略性が高い平和賞は当然のこと、経済賞、そもそもの自然科学分野の各賞までを含め、評価基準に欧米的とかその時代の価値観にとらわれているとかの、客観性に欠けるところがどうしても残ってしまう。

だから、「たかがノーベル賞」で、醒めた目で対応する必要があるのではないか。さりとて、対抗して孔子平和賞を創設するまでもないが。

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